「悪は存在しない」という宣言は二度問われ、私たちは息も絶え絶え原っぱに取り残される

※作品の具体的な描写に触れています

「悪は存在しない」というタイトルの周囲で

 映画に対してタイトルが重要な意味を持つかどうかは作品に依ると思うが、この映画の最初と最後にスクリーンに映される「悪は存在しない」という端的な宣言には、否応なくその言葉の周囲で観客の思考を歩き回らせるような引力があり、私たちはこのタイトルの下で映画を観ることになる。
 「悪は存在しない」という宣言はこの文章において二度問われることになるだろうが、それはゆくゆくである。

映画が構造的に捉え損ねてしまう「自然」というもの

 冒頭部分、木々を見上げる形の移動ショットの断続的な長い連なり、そしてその山で営まれる巧の「調和的」な生活の一部を映すいくつかの断片、薪割り、水汲み、陸わさび、がある。それらがスクリーンを占める時間は明らかに長く、長く映せば映すほど不十分さを増していく。このようなショットをいくら積み重ねても、人工的なものに対照されるところの「自然」の中にいるときの全体的な感覚を得ることは決してできないという確信が私にはある。
 カメラは自然のただ中にあって映すべき対象を見失い、方向感覚も距離の間隔も時間感覚も失くしてしまったようにぎこちない。なぜなら自然には中心がなく、唯一の突出した対象など存在しないからだ。決して定まりえない対象との距離を計り続けても、そこにはいかなる距離も見出せない。
 画面の中央に花ちゃんや巧を捉えていたとしても、それは全体的な自然にとっては人工的に用意された空虚な中心に過ぎず、彼らは本質的には馴染みきらない。チェーンソーの響きとともに始まる木々越しの横移動、チェーンソー越しの巧の顔、流れる川を映すショットの何とも言えない中途半端な距離、水を掬うアップ、環境音を越えて明瞭に響くうどん屋の和夫の第一声。雪の中に花ちゃんの青いダウンジャケットと黄色い手袋の異質さが浮かぶ。
 ない中心を探ってさまようカメラは唐突に陸わさびの視点になるなどもし、積極的にカメラがそこにあることの不自然さを露呈してしまう。私たちは一種の共犯関係に巻き込まれ、何とも言えない居心地の悪さを覚える。

 空間と同様に、山の起伏、土、石、植物、水の間に横たわる時間にも、人間が切り出しうる心地よい長さなど存在しない。それぞれに別々の時間が生きられていて、それらが緩やかにつながった捉えようのない流れが始まりも終わりもなくたゆたい続けている。カメラはその光景をいつまでも映し続けることができてしまうし、反対にいつ映し終えることだってできる。それがどんなタイミング・長さであっても自然を映すという点では絶対的な不足に陥ってしまうのである。
 だからこの映画にとっては音楽が重要なのである。石橋英子の音楽が流れ始め、起伏があり、ときに唐突に途切れる。音楽の始め方も終わり方も本質的に自由であることに彼女があらかじめ向き合っているため、彼女の音楽は倫理的で美しい。その音楽に伴われることで、かろうじてひとつのショットを始めて終えることができる。この映画が企画の段階から石橋英子の音楽を前提しているものであることの意味である。

 自然の持つ複数性を前にカメラの単眼性はなす術なくとりあえずの画面を映すことしかできない。また、自然の中に包含されたいくつもの時間の流れは映画というメディアの時間的な線形性の限界を超え出ており、決して捉えることはできない。映画の線形性とは、外部化されたひとつの時間の流れに従って映画が一本道で進行することを指している。一秒間に24回一定の速度で映写する機械の回転運動が映画の運動を一身に請け負っているという事実である。

人間たちの意識に呼応して映画は自らの形を見つける

 では、そうした単眼的で線形的な映画における「中心」とはどう形作られるか。
 それは人間の意思によって形作られる。人間の意思すなわち人間の意識の働きが明確になればなるほど画面には明確な中心が生まれてくる。
たとえば、前半部分で言えば自動車視点のショット。運転手の意思によって走り出した自動車の後方に映る、だるまさんが転んだをする子どもたち、子どもたちを見守る先生、遠ざかる学童、流れゆく左右の木々。自動車とは人間の意識の働きを十全に活かした結晶のような道具であり、運転という行為にも明確な意識の絶え間ない表出が求められる。
 さらに、グランピング場建設の説明会を境に、人々の意識が画面に充満しはじめ、徐々にカメラは自らの位置を見つけ、画面がこれしかないという形に収まり始めるのを感じる。
 説明会で芸能事務所のふたりを収めたショット。東京から長野へ移動する車中の非常におもしろい会話劇のあいだ斜め後ろから交互に横顔を映すショット、ふたりの後ろ姿を後部座席の真ん中から映したショット。自動車の素晴らしい速度で流れる景色の木々の間にチェーンソーを操る巧が現れ、右折し駐車するあいだ巧が映り続ける一連の流れ。
 そして、うどん屋での会話シーン、巧と芸能事務所のふたりを交互に正面から映すショットが完璧なまでにソリッドに決まっていて、思わず感嘆が漏れる。そこで私たちが抱いたある種の安心感の表れとして、高橋をめぐるコメディに声を出して笑ってしまう。
 行為において意識を十全に働かせるとき、人は明確な目的を設定し、そこへと向かう文脈上に、本来それぞれの意味を生きていたはずの周囲の物体や出来事を組み込み組織しなおす。ものごとを一般的な要素に分解し、再構成する努力を行う。そうした意思に呼応して、カメラの置き場所や角度、照明の位置、物音の録音といった映画における極めて意識的な選択も判明に行われていくのである。
 だから、ビジネスという現代において最も明確な目的を持った意識的な行為によって画面が安定しはじめることは不思議ではない。

一度目の問い 「悪(意)は存在しない」か

 悪(=Evil)は(この映画に)存在しない。悪とはどういうものか。悪とは、他者の痛みや苦しみや悲しみを知っていて、それを積極的に与えようという意思であるとした場合、この映画に悪は存在しない。ひとりとして、他人に痛みを与えようという意思(志)を持った人物は存在しないはずだ。いま問題は私たちの意識における悪意の有無である。
 説明会あるいは芸能事務所でのコンサルとの会議のシーンで、私たちは、この人間たちは悪意を持つ者なのかという疑いとともに彼らを見つめたはずだ。説明会における高橋のどこか気だるげで手ごたえのない反応の中で彼の表情や動作に気を配り、この男の意識には何が浮かんでいるのかと考えた。作業着を来て最前列に座る立樹も同様で、「あんたらの真意はコロナ給付金の獲得にあり、もっと言うとこの町を破壊しようと明確な悪意を持ってここに来たのではないか」というのが彼の疑念である。
 そして、結果としてみる限りでは、誰かを傷つけようと悪意を持っている人物はひとりもいなかった。単純に意識の働きが足りないことはあっても、社長にとって「“善”は急げ」なのである。コンサルも自分ではスライドの一枚すら映さないという徹底ぶりで、飽くまで行為の主体ではなく、補助装置の位置に収まっている。彼らは確かに醜いが、悪でも何でもないだろう。
 高橋も黛も最終的にこれが最後の仕事と決意するところまでいくのだから、もう明確に悪意はないのだ。

二度目の問い 「(私たちの意識が及ばない領域、そこに)悪は存在しない」か

 しかし、意識の問題としての悪以上のものが存在するのではないか?
 この映画が迎えることになる結末がその問いを投げ返すだろう。
 悪意の有無では測れない何か。それを悪と呼ぶのは困難だけれど、それを肯定してしまうのにも苦労するような何か。
 それは私たちの無意識の領域にある。無意識の働きの結果として誰かが傷ついたとき、私たちはそれをどう受け止めるだろうか。ここで、一度受け入れられた「悪は存在しない」という宣言が再び問い直されることになる。
 花の悲劇的な結末に至った直接の原因はふたつある。ひとつは巧の忘却、もうひとつは花の冒険である。
 巧は、二度目の水汲みの場面で銃声を契機として花のお迎えを忘れていたことに気づく。そもそも、一度目の水汲みのシーンでも花のお迎えを忘れており、その夜に説明会の話をするために会食を開くことも忘れている。冒頭の薪割りのシーンで、割れて落ちた薪の一部を荷車に乗せずに残したままにしており、あるいはうどん屋での会計時には小銭を出すのを忘れてぼーっとしてしまう。うどん屋の和夫が言うように巧は「忘れすぎ」なのである。
 忘却とは意識の領域にあったものが無意識の領域に移動してしまうことであり、無意識によってものごとが意識から隠されてしまうことである。
 花の冒険は動物の痕跡を追って展開される。鹿が実を食べた跡、鹿の足跡、地面に落ちた鳥の羽、飛び去る鳥の姿。彼女は友だちと遊ぶのではなく、動物たちを追って山へと分け入っていく。動物たちの痕跡は動物たちの無意識の現れである。彼らは自ら意識的である痕跡であればそれを消そうと努める(たとえば排泄物に土を被せたり)だろうが、意識されずに残していってしまうものもあるのだ。

 巧と高橋がグランピング場予定地に違いない広い原っぱにほとんど前触れもなく歩み出ると、丘の稜線の向こうに鹿の親子と花の姿が浮かび上がってくる。あまりに甘美な遭遇である。鹿の体側の銃創からの出血。ほとんど微動だにしない鹿の顔を正面から捉えたショット。現実離れしていて奇妙で、どこか可笑しみもあって、もはや何でも起こり得るのだという緊張感がある。
 すっかり夜だったはずなのに、あたりにはいつの間にか昼でも夜でもない無時間的な世界が広がっている。ふたりは、論理的に考えれば既に過ぎ去っているはずの花と鹿の遭遇の場面に、現に立ち会うことになる。自然が抱え込んでいる時間の非線形性が彼らと私たちの前に姿を見せる。鹿、花、巧、高橋、今や複数の中心が生きられている。そのとき映画が本来の線形性と単眼性から逸脱しつつあることを意識する暇もないが、かろうじてその不気味な気配を感じる。私たちは息を呑んでスクリーンを見つめることしかできない。まぎれもなく高橋と巧と私たちにとってそれは現実なのであるが、その画面全体の強度を支えている複数の中心がそれぞれ異常な手ごたえを呈している。なんだかわからないが異常さを感じる。
 花が、その大人っぽい顔に笑みにも似た微妙な、そして満足げな表情を浮かべながら、敬意を表すようにニット帽をとる。手負いの鹿だけが人間を傷つけうる。高橋は目の前のできごとに対して明瞭に意識を働かせ、止めに入ろうとする。しかし、巧が高橋の動きを妨げ、スリーパーホールドをきめる。脚をジタバタさせる高橋と巧を遠くから映した素晴らしいショット。口から泡を吹き意識を失う高橋。
 仮に、花と鹿の遭遇に現に立ち会ったことになったとしても、それを阻むことはできない。巧はそう主張するかのように高橋を抑えつけた。なぜなら、それは無意識の働きの結果生じた事態だからである。
 冒頭の「調和的」生活からグランピング場建設というあからさまな自然に対する徴用行為に至るまで、この映画に常に付きまとってきた人間が自然の中で生きることの困難の正体が目の前を横切るのを感じる。
 巧と花は無意識の働きと戯れている。それは意識的に戯れている。だから巧は、無意識に導かれて辿り着いた結果に対して、後から意識したことによって変更を加えることを許さない。彼は話すときいつも、無意識の領域で育った言葉の上澄みが意識の方にこぼれてきた結果としての自動性に身を任せるように、抑揚のない話し方をする。花は先生に危ないと言われていても、動物たちの無意識の痕跡を追うことをやめない。ふたりの意識は無意識に向いていて、忘却に身を任せ積極的に無意識と戯れる、それだけが、彼らが自然の中で生きるときにかろうじて取りうる倫理的態度なのだ。
 自然の中で、自然と共に生きるとは、薪を割って最高に気持ちいいことではないし、川を流れる水の上澄みを掬いとって利用することでもないし、丸太木から薪を割りだすことでもない、陸わさびを新メニューに活用することでもない、どれでもなかったのだ。それは自然の中に充満する無意識と積極的に戯れ、意識を殺すために残酷にもなり得ること。世界が映画の単眼性と線形性を優に超えた複数性を呈するのだということ。ここで映画と呼ばれたものの特徴は私たちの意識の特徴に他ならないのだいうこと。私たちの意識は単眼的で線形的だということ。

私たちはグランピング場予定地の原っぱに息も絶え絶え取り残される

 私たちの意識の働きが及ばない領域に、悪は存在しないのだろうか。
 不意の遭遇を通してその問いに触れた私たちが答えを捉えようと試みても、それに取り組みはじめたときには既に再び問いは意識から遠く離れていってしまっている。意識によっては決して満足に焦点を合わせることのできないぼやけた輪郭だけが見える。私たちは息も絶え絶えでその問いの中に取り残されることになる。
 花を抱えて歩く巧の後ろ姿が霞の奥の森の中へと消えていく。そのショットのあまりの美しさに、涙がこみ上げた。なんとか立ち上がった高橋は、しかし再び力尽きて倒れてしまい、もう巧たちには追いつけない。暗い森の中に紛れていく息遣いが聞こえる。