皮膚である「私」-張天翼『雪の如く山の如く』

 自分の身体を誰からも触れられない。そんな状態にあるとしたら、それは孤独に違いない。だが他方で、他者から触れられることで顕在化する孤独もある。不意に異質なものが肌に触れると、反射的に猛烈な拒絶感を覚える。その不快は、この体に閉じ込められたこの「私」だけが世界でただ一人引き受けなくてはならないものである。誰とも共有することはできない。そうした種類の孤独が、もし「女性」ばかりが経験することになっている孤独だとしたら、触れられることによって「私」たちの身体が問題化する張天翼の『雪の如く山の如く』という小説集は、フェミニズム的なものだと言えるはずだ。

 そうした孤独のさなかで実感されてくるもの、それは、「私」とは皮膚である、という研ぎ澄まされた原理なんじゃないかと思う。触れられることで問題化する「私」の身体とは、触覚を張り巡らせたこの薄い表面なのである。

 小説において他人に触られる「私」を読むということは、線形に純化されたひとつの経験である。そして同時に、言語(中国語)に埋め込まれた(つまり中国の人々が生きる)触覚的リアリズムの経験でもある。

 

※ここから先は作品の具体的な描写に触れています!

『ただ座りたいだけなのに』

 まずは短編集の先頭に配されている『ただ座りたいだけなのに』を通して、皮膚となる「私」を読んでみる。

 故郷で新年を迎えるために帰省する大学生の立立(リーリー)は、不本意ながら「無座(むざ)」のチケットで混雑の列車に乗り込むことになる。「無座」には文字通り席がない。本当は「硬座(こうざ)」のチケットが欲しかったが抽選に外れてしまったのだ。お金を出せば「硬臥(こうが)」や「軟臥(なんが)」で寝そべって帰れたけれど、そんなお金はない。彼女は、二十数時間を席なしで過ごすなんて可能なのかと途方に暮れる。そんな中、「硬座」のチケットを持っている同級生の家宝(ジアバオ)と仲良くなって、一緒に帰省することになる。立立はあわよくば席に座るチャンスがあるのではないかと期待している。そして家宝は、寛大にも立立に席を分けてくれる……。


 一等/二等などではなく、普通席とかでもなく、「硬座」と名付けてしまうような身も蓋もなさが、曖昧な憐憫をあらかじめ阻止していて心地よい。その名付けを通して、そこで生きてきた無数の人々が、皮膚に触れるものとして世界を捉えてきたことが表明されている。見るものとしてでも、階級意識によってでもなく、ただ触れてどう感じるかによってである。そこには中国語に埋め込まれた触覚的リアリズムというものがある。

「硬い座」とはよく言ったものだ。座席が硬いというだけではない。人が硬くなるのにも長くはかからないのだ。数時間座っただけで、腰も膝も腿も足も、棍棒のようにかちこちになってしまう。(p.9)

 硬いものに触れた体は同じように硬くなっていく。座席の硬さを感じるのは触覚だが、自らの体の硬さを感じるのもまた触覚である。皮膚となった「私」にとって皮膚の内も外も、感じられる対象である。

 車内は無数の「無座」の乗客でいっぱいで、身動きするのも難しい。

立っている人よりも、座ったり寝そべったりしている人のほうが多い場所もあった。通路の床板が全然見えない。横たわっている人は、頭とふくらはぎを両側の座席の下に押し込み、腹だけを通路に置かれた荷物と靴の間に晒していて、死んでしまったかのように誰に踏まれても反応しない。家に帰るためには、人は自分の肉体とも関係を断ち切らねばならないのだ。(p.28)

 人々は自らの肉体への関心を手放し、無機質な物体へと変じてしまう。そうすることでかろうじてこの苦しみをやり過ごすことができる。

 あまりにも人が多い。熱気と湿度でむせかえるような空気の中で、この国の人々は途方もない競争をくぐり抜けなくてはならない。必ずしも勝つ必要はない。というより負けない方法は無数にある。とにかくそこで損をしたり酷い目にあったりしないように、自分自身を場に馴染ませコントロールしなくてはならないのだ。そのひとつの方法として彼らは身体を無感覚な物体へと格下げする。

人々は奇々怪々なポーズをとって眠った。手や足を交差させ、互いを枕にするのだ。こんなふうにべったりと引っ付いていれば、どんな場所でも「公序良俗を乱す」という謗りを招くに違いない。しかしこの時、少女のピンクの頬はおっさんの黒ずんだ足の裏に押し付けられ、妻は夫の目の前で、公然と別の人の太ももの上に寄りかかっている。二人席の夫婦や恋人は、まるで太極図のように抱き合い、互いの腹に頭を押し付けていた。(p.35)

 ただの物に変わった肉体どうしは、どんな風に触れ合っても性的な関心を引き起こさない。ただ物と物が折り重なるだけだ。そんななかで、立立は自らの身体を手放すことができない。彼女はまだ全然絶望しきっていないし、勇気があり優しい人だから。

 彼女は接触を避けながら、曇った窓の外の男を見つめる。彼女は彼に一目惚れしてしまう。

彼女はしかたなく体の向きを変えた。変えなければ胸がこの男に当たってしまう。彼女は窓のほうを向き、小さなテーブルに手をついて、今にも倒れそうな姿勢で立ったまま窓に浮かぶ扇を眺めた。扇面の中に新しい一人新しい人物がいる。紺の制服のコートを着た背の高い車掌だ。(p.17)

 ふたりは少しずつ仲を深め、彼は車掌としての特権を使って立立に快適な座席を用意してやる。しかし、無償でというわけにはいかないのだ。彼は立立の弱みにつけ込んで、彼女の体を触る。

……大伯娘がお箸で肉を挟みとり、こっそりテーブルの下から彼女の腿に置いてくれた。あつあつの塊だ。彼女がその肉を見ると、なんと黄色い鶏の蹴爪だ。何本かの爪が、何かを掴むかのようにひろがっている……。

 彼女は目を覚ました。腿の上にはまだ熱いものが乗っている。彼女は石のように固まってしまい、ぴくりとも動かずに次第に目を凝らした。夢の中の鶏の蹴爪は、現実では人の手だった。まだ動いている。(p.59)

 それは明確な裏切りであり、おそらく何度も繰り返してきたのであろう卑怯なやり口である。

しかしこの時、冬の日の列車の中で、立立は微動だにしなかった。唯一動いていたのは彼女の目だった。彼女はぎゅっと瞼を閉じた。冷酷な傍観者が、自分にしか見えない暴行が窓の外で行われているのを目撃したのに、さっとカーテンを閉めてしまった、そんな感じだった。(p.61)

 彼女にはふたつの選択肢が与えられている。

 このまま自らの体の悲鳴を押さえ込んで、目をぎゅっと閉じて触覚だけの存在となり、彼の手を感じながら耐える。あるいは、毅然としてここを立ち去り、再びあの混沌とした疲労困憊の客車に戻る。そこで肉体との関係を断ち切り、他人と折り重なるようにして寒さと苦痛に耐える。

 それは絶望的な問いだ。どちらを選んでも自分の体を自ら疎外しなくてはならない。

 ただ、少なくとも彼と一緒にいれば、自らの体を無感覚な物体に貶めずに済む。生きた「私」でいられる。だからまるで悪くない「取引」のようになってしまう。フェミニズムが問題とするような暴力はしばしばこうして「取引」として成立させられ、「私」を相対的な問題の中に閉じ込めてしまう。

 本来の問題は私たち全員の絶対的な孤独なのにもかかわらず。

 電車で折り重なる無機物と化した乗客たちも、俳優になる夢が破れて旅客輸送の仕事につき、上司に常に試験され、乗客からは罵声を浴びせられ、汚い便所を掃除しなくてはならなくて、毎日鉄道自殺したいと思っている車掌の彼も、運もお金もなくて座席を得られずこうして彼に侵犯されている立立も、皆立ち向かわなくてはならない同じ孤独を生きているのに。それと戦うために団結しなくてはならず、そしてそれは皆が団結してもなお決して克服することの叶わない絶対的な孤独だというのに。

 悲しいことに、彼らは「取引」を開始してしまい、傷つけ合い、坩堝にハマっていく。彼女は結局人生の中で何度も「取引」を経験し、悲しいことにそれに慣れていくのである。

 

その他の短編もまた

 別の短編『スイマー』で、別のリーリーという女性は市民プールの中で男にお尻を触られる。また、下腹部の皮膚についた傷が、その内側にかつて何らかの苦しみがあったことを暗示する。股からは不意に赤い液体が垂れ落ちる。

 『春の塩』で、また別のリーリーは、産後の体をたくさんの親族に囲まれて陰部の傷について話題にされ、百年にも感じられる孤独の中にいる。彼女は自らの体を嫌悪し、

 『年始の挨拶』では、コンプレックスからくる完璧主義に囚われた父親が、厳しく育ててきた娘に性犯罪者が何かしたのではないかと疑う。彼は当の娘に向かって「あいつはアトリエでお前を触ったんじゃないのか? お前の服を脱がせたんじゃないのか? お前のここを突いたんじゃないのか? 言えよ!どうなんだ!?」と叫ぶ。

 『床の上の血』では、内側から勝手に吹き出して問題化する月経と、それを通して連帯していた母娘の関係が人知れず変化してしまっていたことが、久々の帰省で明らかになる。

 

 皮膚となった「私」たちにとって、皮膚を境にした外も内も等しく「私」の外部であり、触覚される異物である。臓器も月経の痛みも股から流れ出る血も男の指も、触覚で感じる。自分の内側も外側も、どうにもならないものとして傍観する対象でしかなく、対処療法的にやり過ごすしかない。その苦しみは本来誰もが感じているもののはずだが、性別という相対性そのもののような構造の中で、不意に非対称な形をとってしまう。

 

 しかし、実のところ、「皮膚となる」ことは必ずしも苦しみだけを与えるわけじゃない。私たちは信頼し合い愛し合って肌を触れ合うとき、世界が互いの皮膚と皮膚だけになるとき、この上ない喜び、安らぎ、快楽を感じる。そのことはこの小説集ではほとんど書かれていないけれど、ひとつ明確にポジティブな触覚が現れる瞬間がある。

 それは『雪山』の中で、走るのが苦手な巫童(ウートン)が学校の800m走に合格するため、友人の呉桐(ウートン: 同じ発音!)にこっそり手を引っ張って伴走してもらう場面である。

手を伸ばすと、彼はしっかり握ってくれた。彼女の手はやわらかく硬いものにくるみこまれ、肌、筋肉、骨を通して力が注ぎ込まれるのを感じた。上半身がぐっと引っ張られたために下半身とずれてしまうようだ。足も必死で回転率を上げて上半身についていくようにした。(p.229)

 彼女は彼のことを何よりもその肌で感じ、そこから力が注ぎこまれるのを感じている。皮膚となった私たちには、こうした経験の可能性もまた開かれている。

 

 

 私たちは互いが皮膚そのものであるということを自覚するところから始めるべきだろう。そして、同じ触覚がまったく別の意味を持ち、別の気持ちを喚起することもあるということを理解するのだ。いや、この言い方だとまるで同じ触覚が存在していて、同じ気持ちを喚起されるのが当然かのようである。そうではない。ふたりの肌と肌が触れ合うとき、私たちは決して同じ触覚を感じないし、同じ気持ちにはならない。どんなに小さくても、そこには差異が存在する。その差異を意識するということが、他者を意識するということなのである。そこから思いやりの端緒が生じてくるだろう。

 

 私たちは、相手がどう感じているかわからない、自分の触覚に閉じ込められた絶対的な孤独のなかにいる。積極的に暴力や取引に走るのは論外だが、そうでないとしても、絶えず不安になりながら相手に触れてみるしかない。すなわち、巫童は呉桐に引っ張ってもらって素晴らしい力を感じたけれど、彼の方でどう感じていたかは永遠にわからないままなのだ。この作品において彼がそのまま死んでしまって、ふたりの関係が永遠に定まらなくなってしまったことは、偶然の不運な出来事ではなく、本質的にすべての人間同士の関係はそうなっているのである。