「黄色いお空」と「白い椅子」 色の異なる働きについて

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白い椅子

白い椅子

  • 柴田聡子
  • オルタナティブ
  • ¥255
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 ここに地球上でもっとも良いであろう楽曲がふたつある。

 黄色い空と白い椅子。このふたつの曲は色によって特徴づけられたタイトルと歌詞を持っている。一聴すればわかるが、どちらもその色によって、そしてその色の効果を超えて、類まれなる素晴らしい作品である。しかし、それぞれの色が詩の中で果たしている機能は全く異なる。それを順番に明らかにしてみたい。

「黄色」いお空でBOOM BOOM BOOM

 「黄色いお空」という表現は、目の覚めるような視覚効果、あるいはぼんやりとした夢の中に連れ込まれるような不思議な印象を与える。この言葉が使っているのは、本来は青いはずの空が驚くべきことに黄色い!というマジックだが、それ単体で詩的表現として素晴らしいとは言えない。「空は青い」という通念とのギャップを利用するのは、高いところにある物を落とすのと同じで、もともと言葉が持っているエネルギーを運動に変換しているだけなのだ。

 この歌詞の素晴らしさは、黄色い空と口にした瞬間に走り出した運動の勢いを、さらなる運動につなげていることにある。黄色い空で何がなされるのか?黄色い空で「BOOM BOOM BOOM」なのである。「黄色い空」と同等かそれ以上に印象的な「BOOM BOOM BOOM」が漫画の効果音のように飛び出してくる。

 さらには、

バスに乗って手と手握り
雲を突き抜けてBOOM BOOM BOOM

であり、

黄色い空でBOOM BOOM BOOM
バスは僕たちを乗せて
羽ばたいて行くのさ夢の彼方へ

なのである。

 バスに乗って黄色い空を行く光景が、それぞれはさして黄という色を想起させるわけではない彼女たちの声で歌われるのが滅法格好いい。サビの「黄色い空でBOOM BOOM BOOM」の箇所では満を持して五人の声が重なり、空へとホップしていく。

 「バスに乗って空を羽ばたいていくこと」は空が黄色いことにも増して驚くべきことであり、たとえば飛行機で飛んでいったり、人間が自ら飛んでいったりしても、空が黄色いことを凌駕することはできず、「黄色い空」という前景に飲みこまれてしまっただろう。しかし、バスが飛んでいくことで、「黄色い空」は魅力的な後景に収まることに成功している。

 「黄色い空であること」と「バスに乗って空に羽ばたいていくこと」は「何があるか知りたい」という点で繋がってはいるのだが、「BOOM BOOM BOOM」の楽天性が示すように、それぞれ別個に楽しまれており、黄色い空であることはこの詩において重大事というわけではない。それは、平成初期という時代が相対的な蒙昧さの中にあったからこそ成立しえた楽天性というよりも、むしろひとつひとつの事実に驚くことが悉く無効化されてしまうようなデフレの徒労感の中で私たちが生きる他なかった悲観的な現実が、周囲からは楽観性として捉えられてしまったのではないだろうか。当時そう見られてしまっていたと思うし、今では猶のことそうなのではないだろうか。私たちは、互いの悲観的な日々を理解しあってともに立ち向かうのでなく、無理解にも互いにそれを楽天性だと判断して軽視し続けてきたのではないだろうか。

 

 「黄色い空」のような一般的なものとの対比による形容表現は、表現それ自体より、そこでどうするか、何が起こるかの部分に肝心な点がある。鮮烈な表現が軽々と通過されてさらなる飛躍があるから、黄色い空はしかるべき迫力をもって現れるのである。

「白」い椅子

 「白い椅子」において作動しているメカニズムは「黄色い空」とは全く異なる。

 この地球で生活してきた大部分の人間にとって、空は、空と口にした瞬間に青の観念を想起させるものであるが、椅子と口にしたときに自動的に想起される色は特にない。椅子は何色であっても構わない。だから「白い椅子」と言うことは「赤い椅子」と言うことと本質的には変わらない(しかし間違いなくそれぞれまったく異質なことでもある)。詩を書くにあたってはあくまで選択の問題なのだ。

 そんな中であえて「白い椅子」と述べることは、世界の偶然性を強調することだと思う。目の前に椅子があったとき、それが白いのはどうしようもない事実であり、私たちはそういう暴力的なものとして世界に絶えず出くわしている。

 

 詩を詳しく見てみると、まず白い椅子より先に青い壁が登場する。

もたれる背もない
青い壁までもやや遠い
かわるがわる人
が来る白い椅子
一度ひやかす膝の骨を……

 青い壁を並置することで、白い椅子もまた選択の問題だということを私たちに自然と感得させる。そして同時に、そう断言されてしまえば議論の余地のない事実として壁は青く椅子は白いのだということも実感される。

 柴田聡子はこの詩を「もたれる/背もない青い/壁までもやや遠い/かわるがわる人が来る/白い椅子一度/ひやかす膝の骨を/……」と歌う。

 意味的区切りを破って、性急に次の単語を発してしまうことで、彼女は意味に追いつかれることを回避し続ける。この歌い方によって、私たちは世界と出会うときの暴力的な衝撃を二重に経験することになる。

 歌唱が詩を呼び、詩が歌唱を呼ぶ、このグルーヴ感にこそ柴田聡子の圧倒的な格好よさがある。

 

 ライブなどにおいて彼女自身が醸し出す楽観的な雰囲気はあるけれど、その歌においては楽観/悲観という構造以前の「存在」の生成に徹されている。それに対して、何かを「存在」せしめられると信じる態度自体が楽観なのだと言うこともできるかもしれない。しかし、その楽観を支えているのは、歌うより前に彼女が受けた何かが否応なくそこに存在してしまうことの衝撃に違いない。

 私たちには、彼女が軽々と言葉から言葉へ飛び移っていくように見えてしまう。彼女のユーモラスで正直な姿勢が、底なし沼みたいに私たちの足を絡めとり、永遠に足をつくことができずに沈んでいく。私たちはかろうじて沼から突き出した手で、もっと盛大に彼女へ喝采を送らなくてはならない。

 

 見てきたように、「黄色い空」と唐突に歌うことは私たちの「青い空」という期待を裏切って超現実へと入っていくことだった。対して、「白い椅子」は、私たちがその色について何も期待しようがないあらかじめの現実として存在してしまっているということであった。これもまたもうひとつの超現実的であるはずである。

 アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』で、ボードレールを引用して、

(シュルレアリスム的なイメージは、)「自然発生的に、うむをいわさず人間にさしだされるものである。人間はこれを追いはらうことができない。なぜなら、意思はもはや力をもたず、もはや諸機能を支配していないからである。」

と述べている。

 最も現実的なものは超現実的なものでもあるのではないだろうか。

 重要なことは、この二曲が色の形容表現として全く異なる通路を通り抜けているにもかかわらず、なお共通した幻想的な雰囲気をもっているということである。そこには、日常から別の世界へ連れ出してくれるシュルレアリスティックな力がある。